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ID 007975: 公営競技はどこへ行く
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タイトル 配信日時 発行部数
007975
公営競技はどこへ行く 05/09/08 02:00 17
●●●本 文●●●
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 公営競技はどこへ行く 2005 9・8 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 

地方競馬については率直なところ、

「どうしてあるのか?」

「JRA一本だけでいいではないか?」

という声が圧倒的だと思う。

日経新聞の野元賢一氏は「サラブnet」というコラムにおいて、地方競馬の存在意義をほとんど否定している。

とりわけ暴論と思われながらも、

「生産頭数が少なくなることによって処分される馬が少なくなって済む。」とか、

「地方競馬のD-netはほとんど利用者がおらず売り上げに全く寄与していない。」

となかなかに鋭い指摘をしてはいるんだが、では、果たしてJRA一本ということで日本の競馬界は今後も継続していくものなのだろうか?

根本の問題として、どうして日本には「二本の競馬組織があるのか?」ということを考えたほうがよかろう。

まずJRA、つまり昔でいえば「国営競馬」というのはファンあっての競馬という趣旨からできたわけではないということ。ひとえに「馬匹改良のため」「軍馬増強のため」に行なわれてきたものである。

一方、「ファンのための競馬」という趣旨というならば、地方競馬のほうが先であり、実をいうと日本競馬の「ルーツ」は地方競馬なのである。

日本の競馬発祥の地は京都の上賀茂神社といわれている。主に貴族の遊びごととして行なわれ、やがて一般の人間を「観衆」に加える「見世物」競馬として発展。いわゆる「祭典競馬」である。今でも「古式競馬」として各地でこうした競馬は観光客用のために行なわれている。

居留外国人が横浜新田でスタートさせた「洋式競馬」が最初に開催されたのは1861年のことだった。また、本格的な現在の競馬のルーツは横浜の根岸で、1867年に当時の江戸幕府に圧力をかけて観戦スタンドつきの競馬場をオープンさせた。そして日本の競馬において「馬券」という概念が登場するのは1888年。しかしながら当時は賭け事禁止令時代で、外国人にだけその治外法権が認められていた。

だが、現在にも繋がるこれらの競馬も実際のところを辿れば「地方競馬」なのである。

現在の中央競馬、つまり「国営競馬」のスタートは1905年、日清・日露戦争において日本生産軍馬の脆弱性が露呈し、「馬匹改良」のための競馬として政府が認可。馬券も「黙許」され、東京競馬会下の池上競馬場で行われたのが最初である。つまり、日本人も馬券が買えるようになったのはこのときがスタートというわけ。

しかしながら馬券黙許時代は瞬く間に廃れていく。度重なる騒擾事件に加え、競馬で財産を失う人間が続出。結局1908年に馬券禁止令が出されたわけだが、馬券禁止により競馬の人気は瞬く間に低落。加えて東京競馬会発足以後、各地で乱立の様相を呈してた競馬会(競馬倶楽部)を競馬人気衰退とともに政府が統合するべく働きかけ、15団体あったものを11に統合。そして1923年に政府が11団体を公認することとなり、これを「公認競馬」と称したわけだが、事実上これがJRA、つまり日本中央競馬会の「ルーツ」というわけである。また、これら認可された団体に限り、馬券の発売も認められた。つまり「馬券復活」というわけである。

一方、地方競馬は政府公認ではないため大義名分上は競馬の開催はできないが、祭典など娯楽のための開催であるならばこの限りにあらずとして1908年に「祭典競馬」として認められたわけだが、実際には洋式競馬を継承する形となり、祭典競馬=古式競馬としての意味合いはほとんどなかった。

そして、そうした背景があることから1910年には「馬匹改良のため」という名目も付け加えられた。さらに1927年に地方競馬規則の公布ということで地方競馬としての体をなすことに。

と見ていくと、地方競馬のほうが明らかに客に「見せる」ための競馬であるということがいえる。しかもその歴史は「古式競馬」の走馬(はしりうま)、競馬(くらべうま)に繋がっていく。

しかしながら地方競馬は政府認可でないことからしばらく馬券発売が認められなかった。認められたのは1939年、つまり戦争色がくっきりと現れた時代であり、「軍馬資源保護法」によって施行されることになって初めて認められたのである。したがってこの時点において漸く「中央」「地方」という二本の競馬組織が確立されていったといってもいい。

そしてこれまで振り返ってみてきたように中央競馬、地方競馬というのはそもそもの「成り行き」が違うのである。

1936年、11ある公認競馬組織を統合して誕生した「日本競馬会」だが、第二次世界大戦敗北に伴ってGHQにより解体され「国営競馬」として生まれ変わることとなった。

しかしながら日本国憲法第九条に示されているように「戦争放棄」を謳っている以上、「軍馬育成」、「馬匹改良」という名目はなく、国営で競馬を行なう意義ははっきりいってなかった。逆に地方競馬は困窮を極める地方財政の財源獲得という意味合いが大きく、1947年にGHQにより「国または都道府県が競馬を開催できる」という競馬法に改められたことから戦後まもなく雨後の筍のごとく林立した「闇競馬」が禁止されたことも大きく寄与。実際のところ、その当時の競走水準は地方のほうが相対的に高いという現象も生み出し、国営競馬は閑古鳥、地方競馬は超満員という状態が続いた。

そうした国営競馬の衰退を危惧した安田伊左衛門翁らの呼びかけで、「お国のための競馬」ではなく、客商売としての競馬と謳いだして1954年に誕生したのが「日本中央競馬会」というわけ。安田翁が初代理事長となり、二代目の有馬頼寧氏はファン投票選出による「有馬記念」を創設させたことで有名であるが、もし「お国のための競馬」という考え方がはびこっていたならば、このようなレースは恐らく存在しえなかったはずだ。

そして、今のJRAの存在が日本の競馬のあり方さえも変えたといっても過言ではない。どちらかというと、国営競馬時代は国のためにやらされているという意味合いが強く、なかなか一般レベルのファン層が根付かなかった。つまり、「上級階層者層」のための競馬という意味合いが大きかったわけだ。

しかしながらJRAは、当時「新興勢力」に過ぎなかったテレビという媒体をうまく使いはじめた。ひいては競馬を「大衆化」させていく方針へと変えていく。対して本来は客のための競馬を志していたはずの地方競馬は当時いまだ「財源獲得のため」の考え方に推移し、大衆化させるという意味合いが大きく遅れた。また、1955年に河野一郎農林水産大臣が諮問した「河野答申」が、競馬の開催は土日に限定するべきであるという内容であったことも大きく響くことになり、ひいては、

「国営(中央)はまともな競馬だが、草(地方)はインチキ。」

なる揶揄も生まれる次第。しかしながら第一次競馬ブームというのが1970年初頭にもたらされるわけだが、言うまでもなく、それをもたらしたのは地方競馬出身のハイセイコーであった。

&&&&&&&&&&& では、また次号でお会いしましょう &&&&&&&&&& 

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